2024.04.04
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by ぷらっと・ぷらざ編集部
桜田門外の変。安政七年(1860年)三月三日。季節はずれの大雪の中、水戸脱藩士17人、薩摩藩士1人、総勢18人が江戸城の桜田門外で大老の彦根藩主・井伊直弼を襲撃する事件です。事変の背景として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約問題を挙げています。1853年にペリーの黒船が来航。1854年に日米和親条約締結。条約を締結した井伊直弼が開国派で、次期将軍候補としては紀州の徳川慶福公を担ぎます(南紀派)。これに対し、水戸の徳川斉昭公が攘夷派で、将軍候補として一橋慶喜公(斉昭公の七男)を推します(一橋派)。このような中で安政の大獄が起こり、徳川斉昭公を始めとする攘夷派は弾圧、処分されます。だから桜田門外の変が起こった、としています。
桜田門外の変は、江戸城の真ん前で、時の最高権力者である大老を、しかも関が原以来、徳川軍団の中でも最強の誉れ高い譜代筆頭の赤備え・彦根藩の藩主を、御三家の水戸藩を中心とした、たった18名の浪士が襲撃したもので、幕府の権威が大きく崩れ去った事件です。現代に置き換えると、皇居前の警視庁の真ん前で、内閣総理大臣が、しかも統合幕僚長出身が、保守党議員の、たった18名に、と言うことになります。
井伊大老登城の供回りは約60人。彦根藩邸(現在の憲政記念館)の赤い門が開き、桜田門(現在の警視庁前)までの約400mを駕籠に揺られながら進んできます。18人の襲撃部隊は、沿道の茶屋などに潜みます。現場のリーダー関鉄之介は桜田門の橋詰に立つ。
午前8時頃、彦根藩の行列が見え、行列が桜田門の前の橋に差し掛かった時、関鉄之介が行列を遮るため、仲間に指示を出します。辻番所から森五六郎が直訴状をかざしながら行列に近づき、いきなり斬りかかる。行列の先頭が立ち止まり、列が乱れ、足軽たちが逃げ出す。駕籠脇をかためていた徒士たちの大半が先頭へ走る。と、その時、一発の銃声が鳴り響き、水戸浪士たちはそれを合図に一斉に斬りかかります。
この事変には発生当時からいくつかの謎があります。一つ目の謎は、なぜ待ち伏せが成功したのか。3月3日は上巳の節句(雛祭り)で、大名が将軍に挨拶するため江戸城に行かなければならない日でした。だから、この日のこの時間に待っていれば必ず井伊大老は登城する、と分かっています。しかし、その待ち伏せはなぜ怪しまれなかったのか。水戸浪士には身を潜める方法がありました。沿道では、江戸町民らが雛祭りのため登城してくる大名行列を見物していました。大勢の見物人が集まり、見物人のための出店までありました。襲うには格好の場所だったのです。襲撃者たちは、武鑑を手に大名駕籠見物を装っていました。
二つ目の謎は、最強のはずの彦根藩士がなぜ滅法弱かったのか。それは、襲撃発生と同時に彦根藩の行列に異変が起こったからです。多くの供回りは次々と逃げ出してしまい、井伊直弼の駕籠は置き去りにされました。彼らは日雇い(アルバイト)だったので、命を捨てるまでの覚悟はなかったのです。60人の行列のうち、半分が逃走し、26人にまで減りました。
さらに、彦根藩士たちは次々と倒されていきます。寒さで手がかじかみ、刀が抜けず一人ひとり斬られました。雪で視界が悪く、供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたため、素早く抜刀する事が難しい状況にあったからです。とっさの迎撃が難しく、それが襲撃側には有利な状況だったようです。
そして三つ目。これが最大の謎です。井伊直弼は、新心新流の居合の達人で、すごい腕前でした。その井伊直弼がなぜ抵抗もせずに打ち取られたのか。この謎について、NHKの歴史探偵はどのような証拠を元に、どのような答えを導き出したのでしょうか。
2010年秋に公開された映画『桜田門外ノ変』。歴史探偵による謎解きに入る前に、私たちが有志とともに作り上げたこの映画では、襲撃をどのように描いているのでしょうか。原作は、襲撃犯リーダー関鉄之介の日記を元にした吉村昭の小説です。手元に残る脚本を見てみましょう。
森五六郎が行列の先頭に斬りかかると、黒澤忠三郎が駕籠に向けて銃を撃ち放ちます。彼の銃弾は駕籠を貫通し、井伊大老の腰に命中。激痛と出血により自由が利かない。斬り合いで周囲が無人となった駕籠に薩摩藩士・有村次左衛門と広岡子之次郎が走り寄り、駕籠に刀を突き入れる。最後は有村が井伊大老を引きずり出し、首を取る。
歴史探偵では、事変の2ヶ月後に書かれた信憑性の高い記録として、2年前に発見された鳥取藩士・安達清一郎の日記を新資料として紹介します。事変後、現場を指揮した襲撃犯リーダー関鉄之介は、江戸から逃げてきて鳥取に潜伏、交流のあった安達に救援を求めます。関を匿った際、安達清一郎は関から事変の様子を聞き取り、自身の日記にその内容の詳細を記します。それによると、襲撃の合図のピストルを発砲すると、護衛の武士が15メートルほど退き、井伊大老は「ヒストンノ玉胸先ニ中リテ死シヲリヌ」。ピストルの弾が駕籠の中の人物の胸先にあたって亡くなった。この日記によると、井伊大老は最初の銃撃で命を奪われていた、ということになっています。居合の達人が抵抗もせず亡くなったのもこれで理解できる、としています。非常に新しい発見として注目されている、とのことです。
歴史探偵では、銃はどこで作られたか、銃はどこから手に入れたのか、そして、銃を撃ったのは誰か、など、銃について深掘りします。安達の日記の中で、関本人は銃を撃ったとは言っていません。ですから、別の実行犯が居たと考えます。ここで、大阪の古式銃研究家が「桜田門外の変で使われた」、と鑑定した銃が登場します。木箱の裏には森五六郎の名があります。森五六郎は直訴状をかざした浪士です。桜の花が刻まれた装飾で、日本で作られたものでした。
当時水戸藩では、斉昭のもとで攘夷のための軍備を増強していて、様々な武器が作られていました。マシュー・ペリーは、コルト1851ネイビー(アメリカ製)を日本に持ち込んでいたそうです。『ペリー提督日本遠征記』には、20挺のピストルを将軍に献上した、と書かれています。幕閣や当時の幕府の高位に贈呈しています。それを手本に水戸で作られた銃が、何らかの形で森五六郎に渡った、とみています。
実行犯を取り調べた際の尋問書『細川家書取』には、2挺のピストルが持ち込まれていたことが記され、また「森五六郎が鉄砲を籠に向けて撃った」、とも記されているそうです。
事変には、水戸藩で銃を作っていた矢倉方の下役である森山繁之介という人物も参加しています。そのルートから銃を入手した可能性が示唆されています。関鉄之介、森五六郎、森山繁之介、少なくとも3挺の拳銃が持ち込まれていた、としています。
このように、歴史探偵では銃にこだわった内容を盛り込むことで、視聴者の関心を銃撃に向けていきます。そして、現場にはもっと銃が持ち込まれた可能性があったとし、「新しい時代の暗殺事件だった」、「侍同士の斬り合いのイメージが覆された」と結論付けています。
この番組を見た一部の人からは、「映画『桜田門外ノ変』は作り直すべきでは」との声も聞こえます。
1959年水戸市生まれ。水戸第一高等学校、筑波大学第一学群自然学類、筑波大学大学院修士課程環境科学研究科を経て、さまざまな街づくりに携わる。現在では株式会社まちみとラボ代表を務め、水戸の歴史と文化、芸術を活用して、水戸のまちに新たな価値を創造し続けている。
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